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更新日:平成25年3月1日

エコ・ミュージアム石碑看板

趣旨

町内には歴史や自然に関する史跡が各所にある。教育委員会では、昭和50年から史跡看板を設置し、文化財の啓発活動を行ってきた。しかし、この看板が老朽化したため、やむを得ず撤去した箇所や、腐蝕したまま使用しているものもある。平成化したため、やむを得ず撤去した箇所や、腐蝕したまま使用しているものもある。平成14年度は「21世紀を見据えた資料館のありかた」におけるエコ・ミュージアムの構想に添った形で、後世に伝えるべき史跡は何であるのかを新冠郷土文化研究会と委託協力して協議・分布調査を行ない、新たな看板設置に備えた。そしてこの調査報告書をもとに、新しい看板を設置し先人が歩んできた歴史を広く伝承する。

エコミュ-ジアムとは、新冠町教育委員会が平成15年度から推進している活動事業です。エコロジー(環境)とミュージアム(博物館)を合わせた言葉で、従来の博物館のように屋内による資料展示ではなく、地域全体を博物館のように捉えた考え方をいいます。

教育委員会では、郷土資料館を中心として、新冠郷土文化研究会の協力、監修のもと、昔の史跡に歴史を残すべく石碑の案内看板を設置しています。この石碑には、文章だけではなく、関係する写真や絵図をのせて、できるだけわかりやすく説明しています。平成18年度現在で、12基の石碑看板がありますが、今後も6基設置予定であり、歴史文化に少しでも興味を持っていただこうと取組んでおります。

 

エコミュージアム(イメージは野外博物館)の具体的な全体像

看板を設置するべき場所について

 

エコミュージアム構想における史跡の活用について

 

今後のエコミュージアム推進事業の内容

 

新しいマップ(PDF)ができました。(鳥瞰図のため位置関係は概略です。)

 

石碑一覧

新冠町エコミュージアムふるさと探訪

(1)村役場跡

  

明治十四年、新冠郡に戸長役場が設置されました。新冠では、この年を開町の年としています。戸長役場はその後、静内との併合を経て再び独立すると、現在の氷川神社付近の民家、新冠川よりの線路付近と場所をかえ、大正十二年には二級町村制施行に伴い、新冠村役場と名称を改めました。写真は、昭和二年にここ本町に建設された村役場で、戦時中の動乱をくぐりぬけ、昭和二十五年まで新冠の人々の生活を見守ってきました。

 

(2)日新小学校跡

  

日新小学校は、明治初期、新冠に徳島藩をはじめとする移住者が多くなってきたことから児童教育が必要になり、開拓者の尽力によって明治十八年に開校した学校です。現在の新冠小学校の前身で、昭和九年までここ本町に所在しており、写真はそのころのものです。その後も、多くの卒業生を送り出してきました。

 

(3)高江駅跡

  

日高線は大正二年に苫小牧を起点として建設され、大正十五年には日高拓殖鉄道により、厚賀~静内間が開通しました。この地区は高江村と呼んでいたことから「高江駅」の名がつけられ、木材運搬や人々の生活路線として活用されました。
昭和二十三年には「新冠駅」と改められましたが、場所は今も昔もあまり変わっていません。

 

(4)北海道指定特別天然記念物新冠泥火山

  

この丘は、新冠泥火山といいます。付近を走っている節婦断層でできた割れ目を通って、地下の泥土や地下水、ガスが長い年月をかけて噴出し、それが山のように堆積してできあがったものといわれています。その数は大小あわせて八つあり、特に第七、八丘は大型で、これだけ大きいものは珍しいことから、北海道指定の特別天然記念物に指定されています。今は牧場として活用されていますが、過去の大きな地震において、丘の頂上に地割れや隆起といった現象がみられ、山が生きていることをおしえてくれます。

 

(5)新冠牧馬場跡

  

明治五年、開拓史は新冠、沙流、静内の3郡またがる、約七万ヘクタールの土地を皇室の土地として定め、北海道の馬の増産と改良を目的として、「新冠牧馬場」を開設しました。開設当時、この地に厩舎や看守舎が設けられ、二千二百六十二頭もの野生の馬を集めて、戦争で使う軍馬や農耕馬、軽種馬として飼育しました。明治十年には新牧場ができ、明治二十一年には新冠御料牧場と名称がかわりました。

 

(6)旧節婦小学校跡

  

大正時代になると、しだいに節婦の人口は増えはじめました。当時児童は、本町にある日新小学校に通っていましたが、大正十五年十月二日に地元有志の尽力により、日新小学校附属節婦特別教授場がこの付近に設置されました。これが節婦小学校の創立となります。昭和十二年に移転するまで、節婦の子どもたちの学び舎でした。実際はもっと海よりにありましたが、その場所も海岸侵食によって今はもう海の底となってしまいました。

 

(7)旧節婦郵便局跡

  

節婦市街地の人口が急増したことにより、大正八年に、新冠市街地にあった高江郵便局は、節婦に移転することとなりました。これが節婦郵便局のはじまりとなります。
大正十五年に再び高江(現新冠市街地)に移転しましたが、昭和三年に特定局節婦郵便局と改称され、節婦に移転されました。以降、郵便物の集配、電話交換業務も行っていましたが、昭和三十二年にその業務は新冠郵便局に引き継がれました。
この写真は、昭和二十年二月の節婦大火において焼失する前の建物と当時の職員です。

 

(11)御前水跡

  

昔、ここからは、水がこんこんと湧き出ていました。明治から昭和にかけて、皇族の方々が御料牧場行啓の際、ここ大狩部を訪れ、この湧き水を沸かしたお茶を召し上がりました。それから、ここの湧き水を御前水と呼ぶようになりました。
写真は、明治四十四年に大正天皇が皇太子時代に行啓されたときのもので、大正十五年には昭和天皇もここの高台にある御野立所に立ち寄られ、休憩されました。

 

(12)大狩部遺跡

  

数千年前から、新冠には大昔の人が住んでいました。豊かな自然に囲まれながら、土器や石器を使い生活をしていました。新冠では、新冠川や厚別川の高台の上に大昔の人が住んでいたとされ、このような所からは多くの遺構や遺物(大昔の人が住んでいた跡や使っていた物)が確認されており、四十三ヶ所もの遺跡があります。
その中でも大狩部の遺跡は、昭和三十四年からの発掘調査によって、大昔のお墓や多数の土器や石器が発見されました。特に土器は、当時あまり例を見ない形であったことから、「大狩部式土器」と名付けられ、全道の考古学者から注目されました。

 

(13)旧朝日小学校跡

  

現在の大富地区には、明治期に開校した姉去土人学校がありました。大正五年三月、御料牧場の都合により、一部の住民とともに学校も平取へ移転しました。このため、住民が寄付金を募り、ここに校舎を建築し、日新小学校附属去童特別教授場として、同年六月十二日に開校しました。これが、朝日小学校のはじまりとなります。その後、新冠尋常小学校、新冠国民学校、新冠小学校と校名をかえ、昭和二十六年に旭小学校、昭和二十九年には朝日小学校と改称しました。
しかし。小学校は昭和二十四年に現在地に新築され、この校舎は、新冠中学校去童分校として、昭和二十八年まで活用されました。

 

(14)姉去土人学校跡

  

昔から新冠には、多くのアイヌの方々が住んでおり、コタン(集落)を形成して恵まれた自然とともに生きてきました。明治二十九年、滑若(現泉付近)に住んでいた古川アシンノカルは、アイヌのよりよい教育を目指し私費を投じて姉去(現大富)教育所を設立しました。しかし、翌年には教師が退職したことにより休校してしまいます。
その後、北海道は旧土人保護法に基づく土人学校を北海道各地に設置しました。その数は三十一ヶ所にのぼります。新冠では、姉去と元神部(現東川)に設置することとなり、姉去は古川教育所の献納を受けて明治三十六年に姉去土人学校として再び開校しました。
しかし、大正五年に御料牧場経営に伴う姉去アイヌコタンの強制移住により、学校も平取村上貫気別へ移転しました。現在の平取町貫気別小学校は、姉去からの歴史を受け継ぎ現在に至っています。
大富に学校がなくなるのことにった新冠の近隣地域は、新たに学校を設置しようと設立されたのが、現在の朝日小学校です。

 

(15)開拓診療所跡

  

昔、緑丘はウンネップと呼ばれていましたが、戦後に御料牧場が解放され、多くの開拓者が入植しました。昭和二十四年、矢澤信明医師はこの緑丘に入植し、開拓者とともに農業を行いながら医療活動も行い、付近住民の健康の維持に努めてきました。
開拓者は、貧しい生活をしていたことから、医療費をとらずに農業を一緒にすることで、その代わりとしたこともあったようです。物資も不足しており、馬で往診をするなどして懸命な医療活動を行っていました。
昭和四十七年には、矢澤医師が医学勉強のために転出されましたが、付近住民は今でもこのご恩を忘れずにいる方がたいへん多いです。

 

(16)北海道官設滑若駅逓所跡

  

昭和初期、北海道庁の駅逓係長であった笹尾作次郎氏は、新冠への視察の際、サラブレットに乗馬し、新冠川を数度渡り困難をおかして、海岸までたどり着きました。そのことから、この奥地に駅逓が必要であることを身をもって痛感したことから、滑若(現若園、新栄、泉)に駅逓が設置されることとなりました。駅逓所での業務は、郵便物の配達、山道を行く馬の飼育、旅人の宿泊があります。取扱人は我妻勇作氏でした。北海道の駅逓制が廃止となる昭和十四年まで業務を行っていました。
この駅逓所の建物と、廊下でつながれいた建物がありました。これは、ハンス・ハンターというラトビア国名誉領事の別荘で、ハンターは例年、初夏に新冠に訪れ、アイヌの方々の案内で趣味であったマス釣りを楽しんでいたということです。このことを知る人は、ほとんどいなくなりましたが、この別荘で使われていた様式便器は今でも残っています。

 

(17)スネナイ育馬場監視事務所跡

  

昔、若園でスネナイと呼ばれていたここには、御料牧場の育馬場がありました。
この育馬場には、馬を監視するための事務所があり、明治三十年頃建られました。戦後に御料牧場が解放されると、昭和二十四年には畠山徳左ヱ門氏の住家として使われるようになり、昭和六十三年まで、写真のような建物が残っていました。
なお、御料牧場の育馬場は、スネナイの他、里平、元神部(モトカンベ:現東川)、ウンネップ(現緑丘)にもありました。

お問い合わせ

教育委員会 社会教育課 生涯学習グループ(レ・コード館内)

〒059-2402 北海道新冠郡新冠町字中央町1番地の4

電話:0146-45-7833  FAX:0146-45-7778

E-mail:record01@cocoa.ocn.ne.jp